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欲しいものが、欲しいね。

植草甚一さんほど尊敬すべき人物はいないなァ。まねてもなれる存在ではないよね。

ヨコハマジャズクロニクル

住まいは横浜ですが渋谷の方が近いこともあって、ミナトに足を向けることは滅多にありません。ガイドブックでジャズ喫茶やライブハウスが多いことまでは知っていましたが、その理由は長らく謎でした。新聞の神奈川版に載った「ヨコハマJAZZストーリー」という企画記事でようやく答えがわかりました。

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1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復した後も、横浜は主要部を米軍に接収されたままだった。朝鮮戦争への出兵を控えた米兵が夜な夜な街をたむろし、はやりの音楽「ジャズ」に合わせて踊り狂った。

ホールを埋めた米兵で賑わった店の一つにジャズクラブハーレムがありました。店の舞台でアルトサックスを演奏したのが渡辺貞夫(83)です。港ヨコハマだけで、何十というナイトクラブができ、米国で流行中の最先端のジャズが流れていたのです。日本人の演奏家たちは昼はジャズ喫茶でレコードを聞き、夜はクラブで演奏して腕を磨いたのでしょう。

駆け出し時代の渡辺貞夫を見いだしたのはピアニストの秋吉敏子(86)でした。ライブのさなか、渡辺が初見の楽譜をつっかえると、秋吉はステージの上ですべての音を止め、「あなたプロでしょ」と叱責したといいます。「ものすごくこたえましたね」と渡辺は当時を思い出すと答えています。

 

米国でジャズの名を冠したレコードが作られて来年で100年たちます。ジャズ喫茶が横浜にオープンしたのは1933年。日本のジャズを育んできた横浜には、今も「国内最古」の店が残っています。

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「ちぐさ」は「オヤジ」と常連に慕われた吉田衛が1933年に開いたジャズ喫茶です。2007年に周辺の再開発のあおりを受けて閉店しましたが、4年前社団法人として復活しました。

今の若い層には考えられないことですが、当時の店はジャズ喫茶は「ジャズ鑑賞を目的とした"図書館"」のようなものでした。客はテーブルに座るとおしゃべり禁止。渡されたレコードのリクエストブックから選べる曲は一人一曲まで。額にしわを寄せて選び、タバコの煙であたりを曇らせ、哲学書でも読むように、ただただ苦渋の表情で鑑賞するのが当たり前。それが年配なら誰もが思い浮かぶジャズ喫茶の姿でした。

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1975年から続く中区山下町のジャズバー「ミントンハウス」も古い店の一つです。客はジャズを聴くために来る人がほとんどという店だったようです。「レコードが主人公。客は主人公じゃなかった」と、マスターの「OIDON」こと川上裕朗(68)さんは当時を振り返ります。「この20年くらいリクエストはないんじゃないかな」3500枚のレコードジャケットを店内に掲げるスタイルは変わりませんが、客の求めるものは大きく変わりました。「ジャズバーに移行したのは必然だった」とOIDONは言います。

レコードは高価で、なかなか買えなかった。買っても自宅よりジャズ喫茶の方が音響が良かったため、持ち込む客が多かった。店内には人の背丈ほどもある大きなスピーカーが二つ置かれ、レコードの柔らかい音色が演奏の息づかいまで再現するように流れる。

当時のジャズ喫茶の特殊性が改めて浮かび上がります。「ジャズ」イコール「難解」という選択肢に縛られた世界です。学生運動に身を捧げた上の世代はみなありがたそうに通っていたなぁ。と私のような年下の世代は思い出します。当時ありがたがられた難しい曲を黙って聞くなんて私にはできません。音楽は楽しく聴くものだから。